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Posted by チェスト at

2015年04月14日

何が“快”で、何が“不快”か

今日は普通に文章で。

「自分がされて嫌な事は相手にしない」

よく目にもするし、耳にもする。
良い心がけだとも思うし、自分もそう在りたいと思う。
ただ最近になって思うのは、


「自分がされて嫌な事」


を案外とみんな知らないのではないか、と言う事だ。
そして、それを知る為には、

“嫌な目に遭わねばならない”


という残念な事実がある。
百聞は一見に如かず、ということわざに在るように、想像は所詮想像であり、体験に勝る事は出来ない。

皆、日々、様々なサービスを利用し、店員の態度の悪さであったり、融通の利かなささであったり、会社都合優先の対応を目の当たりにして、残念な気持ちになったり、怒りを覚えたりしているわけだけれども、そもそも何故そんな事になってしまうのか。

それは結局、突き詰めていけば、相手も自分も本当の意味で「大人ではない」からなのかも知れない。
おそらく、私を含め、ほとんどの人が、自分に何かをしてくれる人に「理想の保護者」を投影しているだけなのではないだろうか。
理想の保護者とは誰かとなると、父であり、母ということになる。

両親と健全な関係が築けなかった人間は、他人とも健全な関係を築くのに難儀する。
なぜなら、両親との関係が、あらゆる人間関係のベースになる。
両親に対する不信、そして、その不信に従い、受け入れてしまった自分自身への怒りであったり、不信感。
それらはあらゆる物事に投影される。
特に、人間関係には色濃く反映される。

私たちが外側に在ると信じている何かを批判する時、それは自分が信じている誤った信念、自分自身が抱えている心の傷の痛みなのだ。
誰かを批判する時、何かを攻撃せずにいられない時、それは塞がっていない心の傷の痛みを紛らわせようとする行為に他ならないのではないか。

だとしたら、その痛みに触れた時こそが最大の好機とは言えまいか。
“理想の保護者”、両親に知ってもらう事の出来なかった痛みを、自分とは関係のない人間に癒して貰おうとし過ぎて、私たちはさらに傷を増やす。そして世界を呪う。

私たちは自らの手で、自分をいたわり、慈しみ、愛するべきなのだ。
自らの心の傷から目を逸らすために、自分の主張を正当化し、相手を攻撃するのであれば、私たちは相手の攻撃も正当なものとして扱わねばならない。
もし、それが気に入らないというのなら、自らの傷の痛みに向き合い、その傷の手当を自らが行うことを面倒臭がってはいけない。

自らの心がどんな風に傷つき、どれぐらいのダメージを負っているのか。
それを理解する事は、その傷が癒える為に必要な事が分かるということであり、不必要に相手を攻撃する必要が無くなる、と言う事でもある。
争いの種をわざわざ好んで巻くということをしなくても済む。


自分の人生の不遇は誰かの責任にする事が無くなれば、おそらく誰からも攻撃されずにも済むだろう。
接客業において、クレームは宝だという事を聞く事がある。
そう、相手からもたらされる不愉快は宝なのだ。
それは自らを癒す最大の好機で在り、自らに内在する傷が癒えるということは、外に投影されていた傷も消えるという事なのだ。
傷が消えれば、痛みも消える。

何者かになる必要などない。
癒してくれる人を探す必要もない。
ただ、自分自身の姿を正しく捉え、癒すべき自分の傷を癒せば良い。
それだけであらゆるものが正しくなる。


不快を避け過ぎてはいけない。




































ゼクシオMP800 アイアン  

Posted by aizawa at 10:59
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